 |
風呂からあがってきたおっさんは、タオル一丁なんて姿ではなく、ちゃんと服を着て、ご丁寧にネクタイまでしめ直していた。薄い頭から、ホクホク湯気なんか出してる。黙って帰っちゃうのもあんまりかなぁ……と、笹本クンのメールを見てシリアス に途方に暮れていたくせに、私は思わず吹き出してしまった。
「そう、絵美ちゃんは、やっぱ笑顔がいい。いっつも、こんな風に笑って」
「それじゃ、なんかバカみたいじゃないですか」
「いいのいいの、バカみたいでも。笑顔は幸せを呼ぶ。幸せは笑顔を呼ぶ。幸福の循環？ 永久運動？ なんか、いいことあったんでしょ？」
あっ、その……私が次のことばを放つ前に、おっさんは私の頭に手をのせて、そのまま祈るように目をつぶった。
「この娘に、もっと幸せがおりてきますように」
えっ？ なに？ 硬直、時間も私も。
「スマイル、スマイル。今日はもう帰りましょう。結婚式の相談は、また今度ね。♪ だいじょうぶマイフレンド〜」
いつものポメ顔に戻って、おっさんはにっこりした。 |
 二十分も余計に時間をかけて、念入りに化粧して出社すると、笹本クンはクライアント直行だった。カックン肩透かし。しかも、午後、バタバタ帰ってきたかと思ったら、札幌のデパートでやってる化粧品会社のイベントがトラブったとかで、急に出張だとさ。おいおい。ま、とにかく、お風呂映画の選別と資料づくりが先。スプラッシュ、愛と哀しみの果て、イヤー・オブ・ザ・ドラゴン、リアリズムの宿、イングリッシュ・ペイシェント、キューティ・ハニー……面白いほど、どんどんお風呂シーンが浮かぶ。リストができたら、DVD借りてきてシーンの裏取りだ。よおし。それにしても、笹本クン、どうしちゃったんだろう？ 「ごめん延期」メールが、ご丁寧にハートマーク付きで来た。ほれ薬でも飲まされたのか？ あり得ないよ、こんな展開。夢は冷めたときが辛いんだよなぁ。ラッキーにどっぷり浸かれない私、どうも幸せに慣れてない。いや、スマイル、スマイル。
|
|
 さて、笹本クン、三枝まゆえ、おっさん、私が揃う会議室。月曜日とは、空気が全く違う。いや、私が違うのか。実は徹夜。でも、ちっとも眠くない。準備した資料片手にプレゼンさながら、お勧めのお風呂映画ラインナップ１５本を説明する。もちろん、メインは『こころの湯』。おっさん、ニコニコしながら見守ってくれてる。まゆえ、なんか文句つけるだろうか？ いや、問題点を指摘したのは、笹本クンだった。
「うーん、このラインナップじゃ、入浴剤との関連が弱過ぎるんじゃないかなぁ？ 」
「あたった中では、唯一、『スプラッシュ』で、人魚のダリル・ハンナが、恋人のトム・ハンクスに隠れて、下半身を魚に戻してリラックスするシーンがあって、海水つくるために、お塩をね、こーバスタブに振り入れるっていうのが……」
「でも、それはさ……」
「あの……この映画フェスティバルの主旨は、入浴剤がどうのこうのっていうことじゃなくて、なんていうか……人間がリラックスする、お湯で気持ちがほぐされるっていうような、そういうことだと思うんです」
三枝まゆえは、腕組みをしたまま黙って聞いていた。おっさんは、どっか空の上の方を見ていた。出過ぎたこと言ってしまったか。ま、いい。本当にそう思ったんだし、そもそもこの手伝いだって降って湧いた話。社員になるなんて、そんなこたぁ、 どうでもいい。思ったこと言わんでどうする。
「バスタミンQ一社じゃなくて、他の入浴剤メーカーだっていいし、バスタブとか給湯器とかのメーカーだっていいし、もっとみんなでお風呂と人間を考えていく、そういうイベントにしたいじゃないですか？ 」
|
|
「たしかに、そうなのよねぇ……」
まゆえは、腕組みをとかずに難しい顔をして、笹本クンの方を見る。
「他の入浴剤って……ま、北野の熱意はわかるんですけど、バスタミンQありきの企画ですからね」
そんなのわかってるよ、笹本クン。反論しようとしたら、おっさんが先に口を開いた。
「クライアントが一番納得しないんじゃないすか？ このままじゃ」
さんきゅー、おっさん。助け舟に乗った私を、もう誰も止められない。好きは好き。仕事は仕事。っていうか、なんか好きはどうでもいいかも。
「お風呂っていうおっきな括りで、心の癒しをどう強調するかだと思います。他の会社に当たるの、私にやらせてください。前の会社では、営業やってましたから。やらせてください、お願いします」
いつのまにか、立ち上がっていた私は、深々と頭を下げた。まゆえが、ぽんと言っ た。
「わかった。みんなで、当たれるだけ当たりましょう。プレに間に合うかどうかはアレだけど、バスQがコケたときの保険にもなるし」
まゆえ、ありがと、あんた、意外とわかってるじゃん。 |
|
 プレゼンが終了するまでの毎日は、実はあんまり記憶がない。ただただ、忙しかった。電話、メール、電話、メール……。資料の準備に忙殺されながらも、配給元との交渉の他、バスタブメーカーだのなんだのお風呂関連企業の担当者とのアポを取り、話をしに出かけた。どこも単独では動かなそうだが、感触は悪くない。電話、メール、電話、メール……。気がつけば、新宿の高層ビルから夜景を眺め、ワインなんぞ傾けている私。えっ、ああ、そっか、全部終わったんだ。私と笹本クンは、打ち上げ兼逢い引きに突入している。でも、ちょっと微妙。ここに、おっさんも、まゆえでさえも、一緒の方が楽しいなんて思ってる自分がいたから。 |
|
「イングリッシュ・ペイシェントのお風呂シーンね、主人公のレイフ・ファインズと不倫相手のクリスティン・スコット・トーマスが一緒に入るのね。前に見たとき、すごくすてきなセクシーなシーンだと思ったんだけど、なんか、今回見直したら、悲しいの。この二人、この後、だめなんだなってわかるの」
「観てないからなぁ」
「ジュリエット・ビノシュが、ああ、看護婦さんの役なんだけど、行水するシーンがあって、そっちは健康的で、なんか生命のエネルギーって感じなのよね。全然違うの」
「ふーん……いいよ、もう、仕事の話は」
仕事の話か。笹本クンにとっては、仕事の話か。ま、仕事の話なんだけど。
「どうしちゃったの？ 北野さんは、急に」
「えっ？」
「魔法でもかけられた？ 変わったよね、突然」
「そう？」
「いきなりキャリアウーマンになったし、よく笑うようになったし」
「そっかな？」
「……あと、きれいになった」
これ、喜ぶトコだろ？ 普通。でも、つるっと流れていく。魔法か。笹本クン、魔法がとけて、王子様からガマガエルに戻っちゃった？
「あの……すみません、帰ります」
えっ！ 笹本クンは絶句した。
「ごめんなさい、ちょっと急用思い出しちゃって……ほんと、ごめんなさい」
私は立ち上がる。私はスタスタ歩く。私は振り返らない。私は何をしたいんだ？ 携帯を取り出し、コール三回。
「今から行ってもいい？」
いいよというそっけない返事だけで、すぐ切れる。通い慣れた阿佐ヶ谷へ。そう、私が急に逢いたくなったのは、ここんとこ二ヶ月近く連絡していなかったくされ縁の男、高野和彦だった。おっさんではなく。 |
|
 |
