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「いや? じゃ、すぐ結婚して、それから映画観る?」
私は、おっさんの顔をまじまじと見た。人をおちょくるにも程がある。
「変な冗談やめてください」
「戸籍係は二十四時間営業だから」
「あのね……」
「ぼくのこと、嫌い?」
「嫌いも何も、お会いして、まだ一時間もたってないじゃないですか。私、稲田さんのこと名前しか知らないし、稲田さんだって、私のことなんかなんにも……独身かどうかだって」
おっさんは、あははははと大きな笑い声をたてた。
「絵美ちゃんは、結婚してません! エリザベス・テーラー賭けてもいい」
なに? その意味不明の断言は。そりゃ、指輪とかしてないけど。私って、そんなに、寂しそうな、物欲しそうな女に見える訳?
「まっ、旦那がいようが恋人がいようが、関係ありません。なにせ、運命の人ですから、ねっ」
なんなんだ、ほんと調子いいぞ、このおっさん。結婚って、年いくつだよ。ひょっとして五十近い? ま、私だって、来月誕生日来たら、六になっちゃうけど。六だよ、六。ろくろくさんじゅうろく。ケンソンなしにおばはんだ。
「絵美ちゃんのこと、一目見たときにわかったんですよ、この人だって」
あーあ、黒目がちのくるくる丸いポメの目、この瞳の中に落ちて行ったら、ぜーんぶ楽になれるんだろうか? ……映画だけですよ、映画観るだけ。結婚なんかしないって。 |
翌日の夜六時半、待ち合わせは文化村の入口だった。秘密秘密ってニコニコしてたけれど、観せたい映画って、ここでやってるどっちだろう?
笹本クンには、結局言わなかった。映画に誘われたことも、嘘プロポーズのことも。報告したら、しれっと「おめでとう」とかのたまうに違いない。仕事の話はした。今回のプロジェクトに、正式に関わってもいいのかどうか。
「お茶漬けのプレキャン、事務局の方は平気なの? あっちは? 木島さんとこのアレ、十一月の、幕張の出店ブースの……そう、結構、暇なんだ。ごめんごめん、そういう意味じゃなくて。こっちとしては、助かるけど。いや、北野さん、社内随一の映画通だって評判だし、コレうまくいったら、前にあった話、正社員にって、アレも進めやすいし。ま、ひとつ、お願いしますよ」
一番聞きたかった「また逢えますか」は、飲み込んだ。恐ろしくはっきり顔に書いてあったはずなのに、笹本クンが無視したから。なんで、あの晩、私のこと誘ったの? 毎日顔見ながら、少しずつ消していく日常なんか器用にやれるんだろうか、私。
おっさんが、大荷物を抱えてふうふうやってきた。
「ごめんごめん。買い出しに時間食った。そこの地下で全国駅弁フェアやってたの。 稚内帆立づくしと関門海峡義経弁当、絵美ちゃん、どっちがいい?」
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さ、行こうと、おっさんは文化村ではなく、正面の細い坂道をずんずん登っていく。あのぉ……そっち、円山町ですよぉ。
「ここ、ここ」
案の定、おっさんは、一軒のラブホテルの前で立ち止まった。
「ここ、映画館じゃありません!」
「心配しなくても大丈夫。結婚式までは、清い関係でいましょう」
「あのね、どうしても観せたい映画があるって、稲田さんおっしゃったから、私……」
「そう。コレ絶対観て欲しいのよ。駅前のTSUTAYAで借りてきたから。チャン・ヤン監督の中国映画。いやね、入浴シーンだらけなんだけど、どう逆立ちしたって、Hな気持ちにはなりようがないの。絵美ちゃんが泣く方に、福原愛賭けてもいい」
仕事だって言いはるんだ、このおっさん。そんな口車にのってついて行く訳ないだろ、小娘じゃあるまいし。アホか。でも、もしかすると、もしかすると、もしかする と、これで忘れられるかな? 笹本クンのこと……。 |
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ガソリンスタンドにある洗車機みたいに人間を洗う、コインシャワーのシーンから映画は始まった。近未来的不思議感ちょいSFテイスト。一転して、中国の古めかしい銭湯。日本の昭和初期みたいなイメージ。女湯はない。裸の男たち。湯殿で、談笑したり居眠りしたり。下手くそな、それでいてあったかいオーソレミーオが、ちょっとくぐもって銭湯中に反響する。おっきな湯船に浸かって、ふぁーっと溶けていくときみたいな気分が満ちてくる。中国の銭湯なんか行ったことはないのに、妙に懐かしい。あくせく右往左往しているうちに、みんなして置き忘れてしまったものがそこにあった。旧市街の取り壊し、再開発という現実を直視できない年老いた父親と知恵おくれの大きな息子。都会で成功しているもう一人の息子の視点は、映画を観てる私と一緒だ。変化に対応できない彼らにいらだち、ときに自己の冷たさを嫌悪し、すべてを愛おしく思い、しかし、どうすることもできない。 |
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福原愛は、おっさんにとられた。いつまでもグスグス泣いている私に、おっさんはよいしょっと箱ごとティッシュをよこし、関門海峡義経弁当を広げてくれた。
「邦題がね、だめなのよ。『こころの湯』ってタイトルじゃ、いかにも感動させますって感じで。中国語のタイトルは、洗うに、なんか読めない字で入浴するって意味。あっさりしてんの。英語タイトルはSHOWERっていうんだけど、シャワーじゃね、なんか全然違うでしょ」
「中国も変わってくんですね」
私は、なんだか、間の抜けた感想を口にしてしまった。でも、おっさんの答えはまっすぐだった。
「そう、中国も変わってく。日本も変わってく。世界じゅうみーんな変わっていく。好むと好まざるとに関わらず、絵美ちゃんのまわりも、ね。変わらないものなんかないんだから」
私ったら、今はまっているドブみたいなこの時間が、一生終わらないような気がしてた。もう、このまま、なんにも起こらないんだと思ってた。劇的な変化にあこがれながらも、なんにもしないで、ただどんどん年取ってくんだって。それでもって、変わらないことに甘えて、知らないうちにじわじわ押し寄せてきてる変化のことなんか、そのためにやっぱり失うもののことなんか、これっぽっちも考えずにいた。 |
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「お風呂映画フェスティバル、これ、メインでいったらどうかなって……。ま、飲んで。食って。ぼくは、ちょっとひとっ風呂浴びます」
プシュッ。2本目の缶ビールも開けてくれたおっさんは、ひとりでさっさと風呂場に消えた。映画と同じくらい下手くそなオーソレミーオが聞こえてくる。すっかり、おっさんのペースだ。でも、とっても楽チン。ずっと昔から知ってる人みたいに、居心地がいい。なんか私もお風呂入りたくなっちゃったなぁ……おっと、あわてて打ち消す。おいおい、おっさんったら、歌詞、全部、オーソレミーオで歌ってるよ。
ひどい泣き顔だぁ。気付く余裕が戻ってきた。化粧でも直すか。ハンドバッグを引き寄せ、ついでに携帯を見る。あれ? 着信あり。げげげげっ! 笹本クンだよ。伝言はない。メールも見る。まさか……来てる。「明日、夜逢える?」ほんとに?笹本クン、あなたは、っていうか、神様あなたはいったい何を考えているんですか? |
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