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   結局、私は、そのまま三日無断欠勤した。電話をかける暇が一瞬もなかったというと嘘になるが、なんだかもう、すっかりイヤになってしまったのだ。大人気ないのはわかっていたが、そのままクビになっても構わなかった。ずっと病院に詰めていたから、電源も切っていたし。後から笹本クンに聞いたところによると、警察に行ったまま音信不通ということで、表だっては騒げないが、社内は秘かに騒然となっていたらしい。社会人失格である。でも、やっぱり、それどころじゃなかった。その昏睡から覚めることなく、おとーさんが逝ってしまったから。
  
 一年七ヶ月も入院していたおとーさんを、一度は家に返してあげたい。珍しく、和ちゃんからの提案だ。長男の顔になっている。葬儀社のワゴンにおとーさんだけ乗せて、おかーさんと和ちゃんと私はタクシーで移動する。 
「阿佐ヶ谷まで。運転手さん、とばしてください。あっちより、先に着きたいから」
 座席に腰をおろすなり、和ちゃんは言った。 
「そうね。おかえりって言わなきゃね」 
 おかーさんは、小さくそうつぶやくと、あとはなんにも言わなかった。 | 
  
 
 喪服を取りに部屋に戻ったとき、私は会社に、いや、笹本クンにやっと電話をした。 
「連絡遅くなって、本当に申し訳ありませんでした」 
「えーっとさ、キミさ、どういうつもりで……」 
 無断欠勤の謝罪、父親同然にお世話になっている人が亡くなったこと、葬儀が済んだら辞職願を持って会社に出向きたい旨、手短に告げた。 
「いろいろご迷惑をおかけした上に、勝手ばかりで申し訳ありません」 
「そう……北野さんが決めたことなら」 
 笹本クンは引き止めなかった。 
「あの……映画フェスティバル、どうなりました?」 
「ああ、アレは企画変更」 
「変更って?」 
「ごくフツーの、冠試写会になった。お風呂映画とかもう関係なく女性向けの新作やって、おみやげにバスタミンQ渡して」 
「クライアント、よく下りませんでしたね」 
「三枝さんの件はモミ消されて、先方の耳には結局入ってない。ま、お見事って感じ。彼女も担当代わったし」 
 たった三日。でも、世界の時間はちゃんと流れている。 
「あの、稲田さんは?」 
 ちょっとだけ、間があいた。 
「失踪」 
「……」 
「警察出てから行方不明。携帯も、事務所も自宅もつながらないし。北野さんとかけおちでもしたんじゃないかって思ってた」 
「まさか……」 
 おっさん、失踪。おっさん、失踪。おっさん、失踪。なんだか、教会の鐘みたいにことばがガランガラン鳴ってる。意味が拡散していく。 
「大丈夫なの? ……これからのこと、とか」 
 受話器の向こうの見えない笹本クンが、いつものように眼鏡をクッと上げるのが見えた。 
「大丈夫、かな? たぶん」 
 ありがとう。それから、さよなら。私は、静かに電話を切った。 | 
 
 
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  そこからは、嫁同前というよりも、もう、私は嫁だった。気丈にふるまっていても、おかーさんは倒れる寸前だったし、ボストンに赴任中の弟の真ちゃんは、急いで帰国したもののただ右往左往してるだけだったし。和ちゃんと私は、まるで長年連れ添った夫婦みたいに物事を仕切った。だから、全部終わってみんなでお茶を飲んでいるとき、この家が自分の家じゃないって気づいて、実はちょっとびっくりしたのである。 
「おつかれさま、って、つい言っちゃいますね。変ですけど」 
「ほんと、絵美ちゃん、ありがとね。おつかれさまでした」 
「やだ、そういう意味じゃなくて。おかーさんこそ」 
「和ちゃんも真ちゃんも、おつかれさま」 
 黙っていた和ちゃんがぼそっと言う。 
「死んだとーさんが、一番、おつかれさま」 
「そうね、あと、藤の湯もおつかれさま」 
 えっ? おかーさん、それって、藤の湯、閉めるってことですか? | 
 
 
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 「和ちゃんも真ちゃんも仕事あるしね、せっかく勤めてる会社辞めて欲しいなんて思わないし……。ボイラーの高見さんも、もう来年は七十だし、おとーさんいなくなったら、おかーさん、ひとりでがんばる元気なくなっちゃった」 
 和ちゃんを見た。なんにも言わない。 
「ごめん。オレ帰って来れなくて」 
 弟の真ちゃんが先に謝った。和ちゃんは、やっぱりなんにも言わない。無口な男がかっこいいとでも思ってるの? 和ちゃんがなんにも言わなかったら、私がなにか言える訳ないじゃない。私がおかーさんを助けて、いっしょに藤の湯やります。だから、和ちゃんのお嫁さんにしてください。そんなこと、ひとりで盛り上がって言える訳ないじゃない。 
「あの、おかーさん。私、会社、クビになっちゃったんです。だから、よかったら、私のこと、雇ってもらえませんか?」 
「そんな、絵美ちゃんに甘える訳には……」 
「だって、番台に上げてもらうって約束、まだだし」 
 和ちゃんが、口を開いた。 
「おまえ、バカか」 
 やっとしゃべったら、これかい? カチンと来た。 
「なによ、その言い方」 
「自分ちの嫁に給料なんか払うか? 結婚するんだから、ちゃんと自覚持てよ」 
「そんなのいつ決めたのよ」 
「今」 
「勝手に決めないでよ」 
「おまえ、言ったろ。オレが本当にしたくなったら考えるって」 
「……」 
「言っとくけど、藤の湯のためでも、かーさんのためでもないから。おまえがここにいない生活はもう考えられない。だから、もう、帰るな」  
 ヒューッ。真ちゃんがガイジンみたいに口笛を吹いて、全部決まった。 | 
 
 
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  本格的に藤の湯の仕事をするようになって、三週間。三十六才という年齢は、私が思っていたよりも世間的にはずっとおばさんのようで、残念ながら、うら若き女性が番台にぃ……的な問題は何も起こらない。ホントは、頬くらい染めてあげた方が、かわいげがあっていいのかもしれない。 
 今どき、内風呂のない家なんてほとんどないだろう。でも、まだまだいろんな人たちが銭湯を訪れる。学生、水商売風の女性、板前さん、おじいちゃん、すぐに井戸端会議を開くおばちゃんたち、小学生の坊やを連れたお母さん……藤の湯版『こころの湯』が、毎日繰り広げられる。常連さんに喜んでもらいたくて、男湯、女湯、それぞれの脱衣場に家庭用のツリーなんか飾ってみた。イルミネーションは、毎年そこに飾られているかのように、静かに点滅を続ける。おっさん、どうしてるんだろ? あのポメの目で、また、どっかの女の子に魔法をかけたりしてるんだろうか? 「この娘に、もっと幸せがおりてきますように」って。そのうち、湯船からオーソレミーオが聴こえてきたりして……あれっ、聴こえるよ、男湯から、歌詞が全部オーソレミーオの下手っくそな唄が。♪オーソレミーオ、オーソレミォー、オーソレミーオ、オーソレミォー……唄声はどんどんどんどん大きくなって、男湯の天井にも女湯の天井にも反響して、天国に響く賛美歌みたいなパイプオルガン付きの混声合唱なって、脱衣場ごと、藤の湯ごとまるごと包み込んで、そして、ふっと消えた。次の瞬間、背広姿の和ちゃんが男湯ののれんをくぐる。 
「ただいま、鍋の材料買ってきたから」 
「……うん」 
「どしたの?」 
「……なんでもない」 
「いいだろ、別にイブにフレンチとか食わなくたって」 
「そんなこと言ってないでしょ」 
「トナカイの肉、奮発したから」 
 和ちゃんの顔を見ながら、自分の分岐点をしみじみ思う。ああ、おっさんって、本当にいたんだろうか? 
「スマイル、スマイル」 
 えっ? 和ちゃんは、チカチカきれいなクリスマス・ツリーの脇を通って、歌なんか歌いながら母屋に向かう。♪だいじょうぶ、マイフレンド〜。そうだね、大丈夫、うん。大丈夫。 | 
 
 
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