「男は我慢、だろ? 」
腹へったな、というおやじの独り言に、返事をしてやる。実際、ほんのちょっとの我慢なのだ。さっきかけたやかんは、沸騰寸前。もうすぐ、おれらは夕飯にありつける。
「とうさん、おまえぐらいのときは、いっつも腹ぺこだったぞ」
「戦時中だから? 」
「いつの戦争だよ……なんか食って来たのか? 部活の帰り」
「ううん」
「橋本くんとか……いつも一緒に行くんだろ? マックとか、ケンタ? とか?」
これって、いわゆる親子のコミュニケーションってやつ?
「あいつらには、食事当番だからって……」
「そっか……なんか言われる? 大変だね、とか」
「別に」
「そっか」
いいよ、別に、ほんとに。会社で気使ってんだろ? 家に帰ったときぐらい、ほっこりしろよ。おやじ、いつのまにか随分おでこ広がったよね。やばいよ、それ、結構。あっ? おれもそうなるってことか。まじやば。
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「あのさ、お前の当番のときって、なんか焼そば率高くないか」
そっかなと、とぼけてはみたものの、実は痛いところを突かれてる。おれが作れるのは、せいぜいカレーかシチューぐらい。献立考えるのも面倒くさいときは、ついコンビニのお世話になっちゃう。中学生だって、結構忙しいのだ。バスケの練習は毎日ハードだし、立ち読みしてるうちに、スーパーに寄る時間なんかなくなっちゃうことも多いし。
「もうちょっとさ、体に良さげなもの食おうよ」
「イエローカード! お互いの献立には文句言わない約束だろ」
「ごめん、でも……」
「それにさ、今日は、焼そばじゃないよ」
「じゃ、これはなんでしょう? 」
たしかに、テーブルに置かれたコンビニ袋から、いわゆる四角い未確認物体がちょこんと角を見せている。でも、おれは、おちつきはらって答える。
「これは、煮そばです」
「えっ?」
「カップ焼そばって全然焼いてないじゃん。煮そばだよ、煮そば」
ピーピーやかんが、笛を吹き始めた。
「おまえ、口ばっか達者になるな」
おやじは、あきれたように笑う。
おやじの手を、あわてて制止した。これは、今日のおれのお仕事。バリバリッと豪快にビニールを破き、ふたを半分だけ開け、具を入れ、湯切りの穴のしっぽをいちいち丁寧に立てる。やかんは、ずっと笛を吹き続けている。
「先にむいとけよ。料理はだんどり」
「料理だって認めたね」
口ばっか達者のおれは、ゆっくりと火を止めた。辺りが急に静かになる。キッチンに、おれとおやじしかいないのが、急に明らかになる。まるで、厳粛な儀式にでも参加してるような顔で、おやじはお湯を注ぐおれの手許をじっと見つめる。
「冷蔵庫から、なんか出すとかしない? ふつう」
「おう」
缶ビールを一本取り出すと、おやじはプシュッとプルトップを引いた。
「それが手伝いかよ」
「おう」
缶から直接飲めるかどうかで、若者かおやじか別れるんだとかなんとか、妙な演説をぶちながら、さもうまそうにゴクゴク飲む。
「もう、お湯捨てていいんじゃないの? 煮そばの鉄人さん!」
おやじの冗談は、いちいちつまらない。
「いいから、マヨネーズ出してよ」
ほとんどビール・牛乳専用庫と化している冷蔵庫から、今度はちゃんと素直にマヨネーズを取り出す。バッコン! おれがお湯を捨てると、ステンレスの流し台が返事をした。
「バッコン! 湯切り考えた人って天才だよね、 プロジェクトxとかに出したいよね」
おれのバッコンを聞いているのか、いないのか、おやじは、夕刊にいい加減に目を通しながら、ビールを飲み続けている。あんな味の液体、どこがおいしいんだろう。でも、それは言わない。子供扱いさせるネタを自分から提供してどうする。
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「……あのさ、ほんとのこと言うとさ、ちゃんとフライパンで焼いた焼そばより、ジャンクな方が好きなんだよね。かあさんいた頃、食べさせてもらえなくってさ、けっこう頭きてた」
「かあさんの焼そば、うまかったじゃないか」
「そうなんだけど……だって、全然違う食べ物じゃない? おっきぃキャベツとか豚肉とかモヤシとか海老とかちゃんといっぱい入っててさ、なんか、その、おやじの言う、いかにも体に良さげな感じ?」
「まあな」
おやじは、ビールを飲む。
「おやじ、かあさんのヘルシー焼そば、また食べたいんだ」
「まあ、ね」
「じゃ、なんで迎えに行かないの? 」
おやじは、夕刊から目を上げない。
「迎えにいけばいいじゃない。また、焼そば作ってくれって」
「……おれたちに焼そば作るのだけが、かあさんの人生じゃないからな」
おやじは、またビールを飲む。
「……おまえは、いいのか? 会いに行かなくて」
二秒だけ考えて、おれは答えた。
「だって、おれの女じゃないもん」
おれは、麺とソースの粉をひたすら混ぜる。これでもか、これでもかと混ぜ続ける。でも、どんなに混ぜても、ソースは均等に混ざらなくて、キャベツのふりをしたピラピラがやたら箸にくっついて、おれは悔しくなって、おやじのビールを奪ってちょっとだけ口に含んでみた。でも、苦い泡は、ずっと前に隠れて飲んだときと同じようにやっぱり苦いだけで、情けないことに涙がこぼれそうになった。いったいいつになったら、ビールがおいしいって思えるんだろう。
おやじは、缶を取り返すと、ゆっくり尋ねた。
「うまいか?」
「おう」
当然のように、うなずいた。おやじは、ちょっと笑って、残っていたビールの最後の一口を飲み干した。仕方なく、おれは、その緑色とも言えない小さな薄いぴらぴらを、一枚つまんで、ひょいっと口に入れた。
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