まず、ビデオデッキが壊れた。巻き戻そうとしたら、ガガッと不吉な音がして、そのままぴくりとも動かなくなった。続いて、炊飯器。炊けなくなった訳ではない。が、タイマーが効かなくなって、デジタル表示はただ無意味な点滅を繰り返している。さらに、クーラー。夏じゅうがんばった疲れが出たのか、掃除してもフィルター・サインが消えず、「生あったかい風」製造機と化した。そして、極め付けのように、風呂の湯沸かし器。物って、どうして一斉に壊れるんだろう。「家庭の幸福」のディテールは、夫婦関係に生じた亀裂と律儀に連動するのだろうか。
「げっ」
残業を終えて帰宅した夫の、第一声。
「じゃ、今晩、風呂入れないのぉ?」
すかさず、皮肉を込めて切り返す。
「裕ちゃん、いつからそんなにご清潔になったの?」
姑も、私に加勢する。
「おまえ、高校のときなんか、平気で一週間ぐらい入らなかったじゃない」
「風呂上がりの一杯が飲めないんじゃ、何のために働いてるかわかんないよぉ」
皮肉など全く通じないかのように、夫は、子供みたいに口をとがらせた。
風呂場をまじまじと眺める。長く辛い戦いは、黒カビ軍の圧勝。風呂釜もそうだが、浴室そのものが、歴史の重みを感じさせる風合いを通
り越して、かなりの状況だ。今どき珍しい総タイルの浴槽の中では、排水溝から無惨な傷口が広がっている。浴槽と洗い場の隙間もぼろぼろで、持ち上げようとすれば、実は簡単に持ち上がるのではないか。白セメントで傷を塞ごうが補強しようが、壊れた風呂とこぼれたミルクは元には戻らないのだ。
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「おまえが生まれたときに買ったんだから、そりゃあちこちガタも来るでしょ。この家も中年! この際、リフォームっていうの、やる? 心機一転、バリアフリーでユニットでクアハウスでジャグジーな感じで。レッツ・ゴー、ジャス!」
「かあさん、意味わかってないだろ」
「裕一、費用は、おまえ持ちね」
「なんでだよ」
「どうせなら、ばか息子もリフォームしたいとこだもの。ね、亜希さん? 」
姑は、いたずらっぽく笑った。このところ、夫は、また新しい女の匂いを放っている。姑も私も口には出さない。無言の同盟。意味がわかってないのは、夫の方なのである。
「サウナ、しっかり下見してきてね」
疲れたから今日は遠慮するという姑は、私たちを銭湯に送りだした。
温泉ではなく、町の銭湯に出かけるのは何年ぶりだろう。
「外で待ってるから」
「いいわよ、別に」
「待ってるって」
洗面器を抱え、石鹸箱なんかカタカタ鳴らしちゃって、私たちは「神田川」か。
十一時をまわっているといのに、松の湯は予想よりにぎわっていた。サウナをちょっとのぞくと、いかにも肉付きの良さげなご婦人が三人、なにやら話し込んでいる。孤独に汗を絞るというより、井戸端会議の風情。湯船には、主のようにおばあさんがひとり。髪を洗っているのは若い女性だ、昨今は風呂付きのアパートの方が多いだろうに。他にも、三十代とおぼしき人が、一、二、三、うん、三人か。小さな男の子を連れた母親は、子供の背中をごしごしこすっている。一つ一つの会話はくぐもって聞き取れないが、声は、礼拝堂に響くミサ曲のように天井にこだまし、私を包み込む。
結婚当初住んでいたアパートの近くにも、銭湯があった。土曜日の夕方なんか、ふたりで一番風呂に行って、洗面
器持ったまんま焼き鳥屋に寄ったっけ。契約更新の時期に、今の家に引っ越しておいでよという話になったのだ。子供ができても共働きを続けると決めていたから、世話を頼もうという下心もあった。姑と、なぜか馬が合うという偶然もあった。それから、七年である。子供も生まれず、勤め先も変わらず、小さな波にも風にも目をつぶって、私は眠たげに暮らしている。男の人って、どうして浮気するんだろう。この波は、はたして大きいのか小さいのか。裕ちゃんを追い出して、いっそ、おかあさんと二人で住もうか。ゆっくりと朽ちていく、あの家で。湯船のお湯は熱かったが、気持ちよさそうに入っているおばあさんの手前、うすめるのは気がひけた。修行僧のように湯を肩からかぶり、あり得ないプランを打ち払って、私は湯船に身を沈めた。
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のれんの脇に立ってすでにビールを飲んでいた夫は、私にも350mlの缶を差し出した。さんきゅ。ゆっくり歩き出す。件の「神田川」など、口笛で吹いている。いい気なもんだ。
「おまえ、赤いてぬぐいってみたことある? 」
「ない」
「だろ。変なんだよ、この唄。だいたい、男がなんでそんな長風呂な訳? 女の髪が芯まで冷えるって、相当でしょ? 」
「あの頃、男の人も長髪でしょ。髪洗うのに、時間かかるんじゃないの? 」
「そっかなぁ……じゃ、あとね、なんで、優しいと怖いの? 優しい方がいいでしょ、普通」
「……裕ちゃん、わかってない」
「えっ?」
「優しいから怖いんじゃなくて、そんな幸せ、続かないってわかってるから怖いんでしょ? 」
「優しいのって、続かない?」
続かない、と、答える代わりにプルトップを引いた。だって続かないじゃないほら、と、夫をなじりそうだった。あなたのいまのやさしさなんかうわべばっかりじゃないほら、ほんとにしんそこやさしかったじきなんてほんのちょっぴりだったじゃないほら。出かかったことばをビールと一緒に流し込んで、私は新しいお風呂を思った。今度のお風呂、外国の映画に出てくるようなバスタブがいい。白くてつるつるしてるやつ。寝そべって上を見ると、おっきな天窓がついてるの。星がきらきらしてて、空には満月。手をのばすと、その満月が毬みたいにころがって、それを湯船に浮かべるの。浮かべて遊ぶのに飽きたら、小さなかけらにくだくんだ。壊れた月のかけらでね、お湯もきらきらきらきらするの……。
「あのさ……」
来たな、と、身を固くした。
「また来よう、銭湯。なっ。」
「……どうせ、お風呂なおるまで、通わなきゃ」
「うちのも、でっかい風呂にするか! 」
見上げると、まんまるの月が、一度も欠けたことがないような顔をして、二人を見下ろしていた。ただ、あなたの、ただ、あなたの、ただ、あなたの……私の中では、音楽まで壊れているというのに。
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