「……たまには顔出しなさいよ。そりゃ、父さん、なんにも言わないけどね、顔見たいって思ってるわよ。いくら長男でも、あんな薄情な奴には、遺産なんか分けてやんないって決めてるね。いいけど、一人でもらっちゃうから。って、まあ、もともと財産なんかないけどさ。この家だって古いからね、いくらで売れるかわかんないし。えっ、まさか。売んない売んない。だいたい家は売れないわよ、土地土地、土地の話、ま、ヤッスいだろうけど。だから、売んないって。ねえ、忙しいの? タっくん、元気? 一度くらいは来れるでしょ。いや、ムリなら一人でいいからさ、どうせミホさんダメでしょ。いや、別に明日来いって意味じゃなくて、ほんと、カズちゃんって昔っからクールぶってるていうか、はっきり言って冷たいよね。ほら、みんなで秩父温泉行ったときだって……」
寂しいのは、おやじじゃなくて姉キの方じゃないんだろうか。たしかに、おやじが入院してる間は、週に一度は病院に行っていたのに、家に戻ってからは一度も訪ねていない。わかってる。でも、億劫なんだ。たまプラーザのマンションから川越まで二時間かからないんだけど、田園都市線に乗って、山手線に乗り換えて、さらに東武東上線っていう、その三段階の敷居が一段一段妙に高いんだ。いや、ほんとは距離の問題じゃない。おやじの顔を見に行かなきゃいけないのは、ほんとわかってるんだけど。
「ただいまとかなんとか言いなさいよ」
ミホが持たせてくれたクッキーを玄関で差し出すと、いきなり姉キのお小言が飛んだ。
「ただいま……ってこともないでしょ」
「ただいまでしょ、そりゃ、やっぱり……父さーん、カズちゃん来たわよー」
奥から、特に返事はない。
「寝てんの?」
「ま、寝たり起きたりひねもすのたりのたりかな」
「そうなの?」
「そんな、いきなりフツーの生活なんかできないでしょ、胃、半分取っちゃったんだから。ねっ! 留守番してて。あたし、買い物行ってくる。鍋やろ、鍋。食欲も性欲も旺盛な若者と飯食うのは、実に久しぶりだぁ」
「三十八だよ、俺」
「大丈夫、ここでは充分若者で通用するから」
中学一年の俺をいじめてた高校一年の頃みたいに、さもさも大人ぶって、姉キはにやっと笑った。
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コタツのおやじは、病院にいたときよりもさらに小さい。テレビのバラエティなんかつけて、出演者が笑いさざめくと、見てもいないくせにつきあいのように微笑む。いや、家の匂いを味わいつつ、実は、姉キと俺の漫才を笑っている。
「カズちゃん、はいっ! 次っ!」
具の下ごしらえができる度に、俺はへいへいと取りに行く。白菜、シメジ、舞茸、白舞茸、タラ、椎茸……今度は、エリンギか。昔から気になっていたのだが、ウチの寄せ鍋は異常にキノコが多い。
「彼氏とかに言われたことない? これ、寄せ鍋じゃなくてキノコ鍋でしょ」
姉キが、アチチチっと、お銚子を二本ぶら下げてきた。
「男に鍋作ってやったことなんかないもの」
「寂しい人生だね」
「ほっとけ。濡れオチバっ! 今に、家庭でもリストラされるぞ」
「なんだよ、デモって。オールド・ミス!」
「死語でセクハラすな」
「行かず後家っ!」
「さすがっ。オヤジはやっぱりボキャブラリーが違うね。通じないでしょ、それ、いまどきの娘には……父さん、おひとつどうぞ」
いいの? 酒なんか飲ませて。突っ込むまもなく、おやじはクイッと飲むと、ふーっと息を吐いた。
「ま、カズちゃんは手酌でね」
姉キは、俺には徳利ごと押しつける。はいはい、マイ徳利ね。自分でやります。どうせ俺なんか、ここんちから、とっくにリストラされてますよ。
「キノコ、母さん好きだったもんな。亜希子も飲め」
おやじが姉キに注ぐ。姉キも一息で飲む。
「ま、仲良くやってくれよ、お前たち、二人っきりなんだからさ」
姉キはおやじを見て俺を見て、それから、もう一本、いや二本つけてくると台所に立った。
「……亜希子の燗は、ほんとにまずいな」
おやじは小さな声でそう言うと、俺に酌をしてくれた。あれっ? これって……。なんか言わなきゃ。
「沸騰させてんじゃないの? ったく、こんなんだからもらい手ないんだよ」
おやじは薄く笑った。そして、その、味がないっていうか、お湯みたいっていうか、実はお湯そのものとしか思えない熱燗をまた手酌した。
「……あんまりまずくて、涙が出てくる」
キノコ鍋は何も答えず、小さくグツグツしながら宴を待っていた。
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結局、その日から一ヶ月もたたないうちに再入院したおやじは、あっけなくこの世を去った。長く苦しまなかったのが、救いだったと思う。葬式の後、ミホと達彦を先に帰し、俺は川越に泊まることにした。
「松寿司、味落ちたね」
「そうお? カズちゃん、美味しいモンばっかり食べてんでしょ」
「そんなことないよ」
「この辺の寿司屋なんて、こんなものよ」
そう言いながら、姉キは、子供の頃と同じように、甘海老を俺の桶に移した。俺も、子供の頃と同じように、姉キの桶にイカを返す。柱時計が七つ鳴った。この家が急に古々しく、そして、信じられないほど大きくなった。いや、姉キが急に老けたのか。目の前に座っているのは、喪服に身を包んだ、疲れた顔の中年女だ。
「どうすんの? これから」
「どうもしないわよ」
「ここで一人で暮らすつもり?」
「悪い? っていうか、もう家売ること考えてんの?」
「そうじゃないけど……結婚とかしない訳?」
「バッカじゃないの?」
心配してやってんのに。頭に来た。だいたい姉キは、いつだって俺を半人前扱いする。本当は、インテリア・デザイナーだかなんだかになりたかったくせに、カズちゃんは東京で就職しなさい、私が父さん母さんと一緒に住むからって、いきなり市役所に仕事見つけちゃって、おふくろが脳硬塞で倒れたときだって、結納間近まで行ってた恋人とさっさと別れちゃって、自分だけが大人で、自分だけが家族思いで、自分だけが犠牲になれば丸く収まるみたいにいっつも振るまって、今回だって、父さんの前で自分ばっかりいい子になってさ……そういうとこが鬱陶しいんだよ、そういうとこがミホとも合わないんだよ。このまんまじゃ、俺がずっと、俺が……俺ばっか勝手なことやってるみたいじゃないか。
「飲むでしょ? やっぱり、ちょっとつけよっか」
「あのさ、おやじにバレてたよ、あれ、お酒じゃないって」
「……当たり前じゃない、父さん全部知ってたんだから」
「全部って? だって、告知しないって俺と相談して……」
「なんにも言わなくても、全部知ってた」
姉キが台所に立っても、動けなかった。姉キの前では、いつまでたっても頼りない中坊だ。何もできない。鍋に水を入れる音、チチチチッとガス台に火をつける音、そして、押し殺した姉キの泣き声を、俺はただ黙って聞いていた。
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