日本のお風呂をもっと楽しもう『湯の国』

お風呂をもっと快適に、お風呂をもっと楽しむために
STORY
 仕事に生きる訳でも、将来に夢がある訳でもない36才のわたし、北野絵美。イベント会社でアルバイトをしている。せいぜい試写会に行くのが趣味。8年つきあっているくされ縁の彼とは、月に一度会う程度。結婚するかどうかも、はっきりしていない。

 ひょんなことから、入浴剤メーカー協賛の映画祭イベントに携わることになる。お風呂にまつわるシーンがある映画を集めるという企画。新しい人間関係が一挙に拡がり始める。

 年下の上司、不思議な魅力をはなつ中年の映画ライターとの三角関係の行方は? お風呂映画フェスティバルは無事開催できるのか? 北野絵美は、はたして自分の人生の目的を見つけることができるのか?

工藤千夏
劇作家。劇団「青年団」演出部所属。ユニット「うさぎ庵」を主宰し、演劇、詩、小説など幅広く表現活動を続けている。ガス・エネルギー新聞に「マダム・ガスビーキ の炎の応援歌」を連載中。

うさぎ庵HP
http://usagi-an.com/

BACK NUMBER
第1回 どきどききゅん
第2回 どんどこどん
第3回 あれよあれよ
第4回 むむむむむ
第5回 ばきゅーん
最終回じわじわ
湯気の向こうに天使が見える
 「座れば、ねえちゃんも。ここ、ここ」
 会議室。無表情仮面をつけててコーヒーを出していると、今日、初めてうちの会社に顔を見せた妙なおっさんが、自分のひざの上をポンポン叩きながらにっこり笑った。
「稲田さん、それセクハラですよ」
 助け舟を出したのは、事もあろうに三枝まゆえ。大手広告代理店だろ? 自分とこの美麗な会議室使えばいいのに。何を好き好んで、こんな弱小企画会社のこぎたないビルに、いつもいつもうれしそうに打ち合わせにやってくるのか。気を使ってるつもりで、気を使わせるタイプ。どうも、気にさわる小娘だ。
「ええやん、お知恵拝借や。猫の手も孫の手も借りにゃあかん」
「どうしたんですか。急に、妙な関西弁なんか使っちゃって」
「頼みごとするときは、関西弁に限るでぇ」
「関西のご出身でしたっけ?」
「うんにゃ、三代前から江戸っこや。ちゃきちゃきでっせぇ」
「意味わかんなーい!」
 きゃはきゃはと、まゆえの笑い声が響き渡る。どーしろっていうんだ。肝心の私の上司は、何も言わずにじっとホワイトボードを見つめている。クールぶっちゃって。こういう奴なんだよ、笹本クンは。私より三才年下、三十二才、妻ひとり、息子ひとり、ラブラドールレトリーバー一匹。二週間前に一度だけ寝た。その後、プライベートでは口をきいていない。

 
メガネ
 「北野さんだってお忙しいんだから」
 「……」
 まゆえのこの一言がなかったら、ごく普通にお茶を出し終わって、失礼しますと退室しただろう。でも、一瞬、ピキッと心がこわばった。いや。いやいやいや、なにやってんだ、私。ハイ、オイソガシイデス。所詮バイトの身、ちゃっちゃと雑用片付けてさっさと帰ろう。
 「北野さん。たけこさん? 映画好き?」
 誰がたけこさんだ。でも、このおっさん、元カレの実家で飼ってたポメラニアンに似てる。目がね、やたら人なつっこいの。
「あのね、お風呂シーンが心に残る映画、なんかないですか?」
 指されたホワイトボードを見る。伊豆の踊子、こころの湯、ゲンセンカン主人、サイコ、スターシップ・トゥルーパーズ、ビッグフィッシュ、ノスタルジア、キャリー、バッファロー'66、浮雲、秋津温泉、温泉スッポン芸者、クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦、春琴抄、ふたり……なるほど、脈絡なく書かれているのは、映画のタイトルばっかり。笹本クンが、初めて私の方を向いて言った。
 「知ってるでしょ、バスタミンQ、入浴剤の。あそこの会社にさ、新規でプレゼンするのね、お風呂映画ばっかり集めたイベント。で、企画書に載せるラインナップ考えてるんだけど、なかなかこれぞっていうのがなくってさ」
「……ああ」
「北野さん、映画よく行ってるよね? 他になんかない? 」
 ええ、二週間前も、あなたと試写会に行きました。ブラピの新作。殺し屋の話でしたね。お風呂のシーンはありませんでしたよね。一瞬、笹本クンの、眼鏡をとった、やや間の抜けた顔を思い出す、あのときの。
 「危険な情事で、マイケル・ダグラス、たしか相手の女バスタブに沈めてましたよね」
 眉をひそめる笹本クン。
「そういうのはさぁ、クライアント的には……」

 
 
 「いや、いいいい。ブレストなんだから。ブレイン・ストーミング、ブレイン・ストーミング。脳味噌、ぐちゃぐちゃシャッフルね。縛り入れたらダメよ」
 ポメのおっさんがフォロー。立ち上がって、ホワイトボードに、やたら大きく危険な情事と書き足す。この人誰なんだろう? お盆を会議テーブルの上において、私はおずおずと質問形式で発言する。
「卓球温泉とか?……あと、千と千尋も、巨大温泉旅館で働く話ですよね?」
「いいねいいね、どんどん出てくるねぇ」
おっさんは、卓球温泉、千と……ちょっと考えて、カタカナでチヒロと書いた。今度は、まゆえが異義を唱える。
「さっきからそうなんだけど、温泉ものってどうよ? って感じしません? 入浴剤、関係ないでしょ、温泉は」
「温泉の素ってあるでしょ? 」
「そういう問題じゃなくて」
「温泉とかソープとかはずしたら、映画はさぁ……」
「この仕事は、稲田さんが普段生きてらっしゃる、映画マニアの世界とは違うんですから」
「はいはい、入浴剤映画ね」
「そこまでは、期待してませんけど」
「言っときますけど、ずぅえーったい、ありませんよ。由実かおる賭けてもいい、うん」
「なんですか、それ」

 
バスタブ  あっ。バスタブ、モノトーンの映像が浮かぶ。そうだ!
 「浴室っていう映画ありましたよね? フランス映画。俳優とか監督の名前とか忘れちゃったけど、やたら背の高い、目のぎょろっとした男の人が、服着たまんまでバスタブで暮らす話」
 ため息まじりの「ああ」で、会議室が満ちる。
 「監督はジョン・ルヴォフ。主演がトム・ノヴァンブル。もともとはジャン=フィリップ・トゥーサンの小説で、脚本も書いてる。ま、今で言うひきこもりを淡々と不思議なユーモアで描いた秀作ですねぇ。いやぁ、灯台下暗し」
 稲田さん? おっさんの映画解説が、また、ぴしりと決まる。
 「入浴シーンもあるんですか?」
 まゆえが、興味深そうに尋ねる。
 「あったと思いますけど……」
 おっさんのフォロー、再び。
「あったあった。なんかね、主人公は直立不動で、そもそも洋服着てるし、へーんな感じでバスタブにいるのに、美人さんの恋人が、普通にお湯はって、こー、手とかのばしてりラックスすると、なんか、見てる方もふーってなるんですよ、それまでの妙な緊張感から解放されて」
 そう、ちょっとぽっちゃりしてて、かわいい女優さんだった。あんな変人、まるごと許容できるってすごいなって、あきれて、それでもって、真面目にちょっとうらやましかったんだ、あの映画観たとき。
 
 

 
携帯電話  着メロが鳴り響いた。まゆえの携帯。プリティ・ウーマン。古いんだか、新しいんだか。あれっ、ジュリア・ロバーツ、お風呂入ってたよね、たしか。まゆえは、手短に電話を切る。
 「ごめんなさい、もう行かなきゃ。次の打ち合わせ、今週中にもう一回やりましょう。じゃないと、企画書間に合わないでしょ」
 「じゃ、木曜? おんなじ時間でいいですか」
 笹本クンがまとめる。全員わらわらと立ち上がる。
 「たけこちゃん、次までに百本選んどいてねっ」
 ポメのおっさんが、また私に笑いかける。次? 次も出ていいのかなぁ。笹本クンを見る。……。いいよ、無視するんなら。わかりました、お風呂映画百本、耳を揃えてご用意致しますから。
 「あの……絵美です」
 「えっ?」
 「たけこじゃなくて、絵美です。北野、絵美」
 ポメのおっさんに、最大級持てる好感度ぜーんぶ突っ込んでにっこり笑いかけながら、笹本クンをちらっと見る。あっ、目があった。でもって、そらした。なんで、こんなんできゅんとなるんだ。私は中学生か。大人の恋愛始めたはずのに。っていうか、始まってるのか、笹本クンと私は。何も言わずに資料抱えて出ていく。ああ、野郎。眼鏡、叩き落としてやりたい。
 「ああ、エミちゃんか。どんな字? 絵画の絵に? 美しい? 絵美。北野絵美。なんか、フィギュア・スケートの選手みたいな名前ね」
 しゃべっているおっさんの顔と、ことばがシンクロしない。「つきあってるんじゃなくて、つきまとわれてるだけ」って、なんの映画だったけ。セリフ言ってた人の顔が浮かばない。「つきあってるんじゃなくて、つきまとわれてるだけ」……ことばだけ、ぐるぐる回ってる。
 「よろしくっ。僕は稲田耕造です。農業してそうな名前でしょ、でも、こう見えても映画評論家っていうか、売れない映画ライターですかね」
 私は曖昧に笑う。おっさんの声が、音楽みたいに意味を成さずに響き続ける。
 「絵美ちゃん、今日これから、映画観にいこ。で、よかったら、その後、ぼくと結婚してくれませんか?」  はぁっ? もう一度繰り替えしてもいいですか? はぁっ?
 「結婚しましょう、ぼくたち、映画観たら」
つづく